47歳でセミリタイアしてアメリカ移住する予定が、なぜか「佐賀県」に移住した話_PR
佐賀県唐津市に夫婦で移住!本当はアメリカに行く予定でした。実際に東京から離れてどうなのか、魅力や体験に溢れた暮らしをレポートします。移住の支援や補助などに関しましては佐賀県移住ポータルサイト「サガスマイル」をご確認ください。
※本記事は佐賀県移住支援室の提供でお送りいたします。
ネットニュース編集者/PRプランナー/フリーライターの私・中川淳一郎は、2020年8月31日をもってセミリタイアをし、アメリカに渡ろうとしていた。
もはやウェブメディアは過当競争で、さっさとこの場から撤退したくて仕方がなかったのだ。毎日毎日数字に追われながら炎上や事件を追いかける日々。ひとつの原稿を納品しても、またすぐに次の原稿の締切が来る。そんな馬車馬のように働く生活にはもう疲れたのである。
「貧乏になってもいいから、もうこのキツ過ぎる勝負の場から降りたい!」と考え、「47歳でセミリタイアし、アメリカで2020年の米大統領選をリポートする」という人生の目標を決めた。40歳になった直後、2013年の時である。
そこから7年経った2020年。「ヘイ喜んで!」の精神で来る仕事を全部引き受け、昼夜問わず働きまくったおかげである程度まとまった貯金も出来、いよいよ「セミリタイアしてアメリカでのんびり暮らす」という長年の夢を実現する時が来た。
年初には「ワシは2020年8月31日でセミリタイアしてU.S.A.に行くから日本のウェブメディアの未来は皆に任せたぞ!」と関係各位に伝えており、「仕事、辞めますんで」とクライアントへの挨拶まわりも済ませていた。
そしてコロナが世界を襲った。
一体なんじゃこりゃー! もはや海外に行くこともままならんし、在日アメリカ大使館はビザの発給を停止!当然アメリカになんて行けない!そして、今更「やっぱり、リタイアすんのやめますんで……」と言うわけにもいかない。引き継ぎをかなり進めてしまっていたからだ。
仕事を辞めるという事はつまり収入が激減する、ということだ。
「おいおい、オレ、仕事の大部分を辞めて収入も減るのに、このまま東京で高い家賃払って消耗する人生を送らなくちゃいけないの……?」と悩んでいたところ、「旦那、イイ話がありまっせ……ヒヒヒヒヒヒ」ともみ手をしながらやってきたのがライターのヨッピーさんである。
ライターのヨッピーさん。個人的にも佐賀県を気に入ってるらしい。
「中川さん、U.S.A.に行けないんだったらSAGAに行きませんか! 僕、これまで佐賀県庁の人と一緒にPRの仕事してきたんですが、SAGAに移住して、現地から情報を発信してくれる人を探してるらしいんですよ。SAGAは良い所だし!」
「ガハハハ! 佐賀だけに『探してる』なわけですね。行きまーす! アメリカを諦め、佐賀に行きまーす!」
「ちなみに、中川さんは東京から引っ越したら何がしたいんですか?」とヨッピーさんに問われ、「とりあえず農業と、虫取りと、釣り!」と伝えたところ、「それなら唐津が良さそうですね。海近いし」と言われたので「じゃあ唐津に住みます!」と宣言。意思決定まで5秒足らずだったと思う。
かくして私は「東京で消耗した」フリーライター歴16年の妻を一応納得させ、佐賀県の唐津行きをかなり短絡的に決めた。
こんな所らしいです、唐津。
2020年秋、いざ佐賀県へ
というわけで、私はもう東京への退路を断ち、その場のノリで唐津にしばらく(少なくとも2年は)住むことを決めたのです。そこからは東京の家を引き払うために悶絶の掃除の日々が始まった。
捨てても捨てても片付かない我が家。
最終日は朝から鰻の串でビールを飲み、「中川さん!家出てくなら次はオレが住みますよ!」 と名乗りをあげてくれたライターで動画づくりのプロ・砂流恵介さんも我が家の視察にやってきてこれまた一緒にビールを飲んだ。
夜はライターの漆原直行さんの一家とともに羽田空港近くのホテルで最後の一夜を過ごし、翌朝は空港まで送ってくれ、いざ東京に別れを告げたのである。嗚呼、オレを育ててくれた東京、ありがとう。おかげ様で47歳にしてセミリタイアすることができました。
東京は偉大な都市だ……と感傷に浸りながら最後、崎陽軒のシウマイをつまみにビールを飲み、いざスカイマークエアラインズに乗って福岡空港を目指したのです。
空港内のうどん店で肉うどんにごぼう天トッピングをしたのですが、これがウマい! ふにゃふにゃのうどんにごぼう天を食べるといよいよ「福岡に来たぜ!」という気持ちになります。私は母方の実家が福岡県北九州市八幡東区にあるため、一応懐かしの味ということになります。
そして、地下鉄(JR筑肥線直通)に乗り、いざ佐賀県唐津市へGO!東京の混雑した電車に慣れた身としては、JR内に入ってからのガラガラっぷりにはギョーテンするとともに、「地方の電車ってこんな感じなんだよな……」ということを思い、無人駅率が全国では約48%であること、赤字路線が多いことなどに思いを馳せるのでした。とはいっても、筑肥線、海沿いの風景はたいへん美しく、これからの唐津ライフに期待を持たせてくれました。
そして福岡空港から、乗換もなく1時間20分くらいで東唐津駅に到着。駅前はガラーンとしている。タクシーも待っておらず、タクシー乗り場にはタクシー会社の電話番号が書かれてある。「乗りたいんだったら呼んでね」ということのようです。
東京の場合、呼び出したら料金を取られますが、こちらでは呼び出し料金がかからない模様。運転手は東京から来た我々を「お前はコロナ陽性者か!」と敬遠するかな?、と思ったらまったくその様子はありません。
この日の宿、「洋々閣」でもスタッフの手厚い歓迎を受け、ようやく宿で人心地つき、ビールを飲むと、なんだか昭和の文豪になった気持ちになれる宿でした。
夜にはヨッピーさんが迎えに来てくれ、武雄市に本店がある「井手ちゃんぽん」の唐津店へ。餃子を食べた後にちゃんぽん。魚介類が入ってる長崎ちゃんぽんと、入ってない佐賀のちゃんぽんという違いがありましたが、実に美味でした。その後は唐津城を見てからユネスコの無形文化遺産「唐津くんち」の曳山展示場を外から見て、宿に戻りゆっくりと寝たのです。
そして翌朝は洋々閣名物の朝食を! とにかく米はウマいし、数日間野菜不足の生活を送っていたため、しみじみと体に良いものを食べている気持ちになれ、そしてさすがの九州の魚! マナガツオ(?)の干したものは絶品でした。そしてこのあと、いよいよ新居への引っ越しです。
ちなみに佐賀県には移住希望者向けにお試し住宅の制度を設けている自治体があり、1日~最大1か月までお試しで住む事が出来ます。私が住んだ唐津のお試し住宅は3DKの平屋で、生活に必要なものはすべてついており、Wi-Fiも完備。
こりゃあ、仕事もはかどるわ。実際数々のZoom会議もこの家でこなせ、仕事的にはまったく問題のない1ヶ月間をすごしました。「中川が住んだ家ってどんな間取り?」と気になる方はここをご参照ください。まさしくこの家に住みました。
そんな風にして唐津での生活がはじまったのです。移住と同時に、「僕が中川さんに佐賀を推薦した以上、佐賀の良いところを紹介して、中川さんに『佐賀に来て良かった!』と思わせる責任があります!」と意気込むヨッピーさんに、佐賀の色んなところに連れて行って頂きました。
唐津の名勝「虹の松原」でからつバーガーを食べ、
唐津から太良町に至る道中で佐賀の銘酒「鍋島」を入手。
九州といえば焼酎文化だと思われるでしょうが、実は佐賀は日本酒の名産地でもあるのです。滅多に買うことができないこの銘酒、1軒目では「ウチは鍋島ないなぁ……でも、〇〇さんだったらあるよ」と言われ、なんとライバル店の場所まで教えてくれるではありませんか!
そして農家の方もご紹介頂きました。私が「農業をやりたい!」と言ったのでヨッピーさんが調べてくれていたようです。
太良町で「森のアスパラ」というブランドを生産し、『食彩の王国』(テレビ朝日系)でも紹介された株式会社A-nokerの安東浩太郎さん。新しいことに日々取り組んでいる方で、元々は大阪で働いていましたが、縁あって実家の隣県の佐賀に来たそうです。アスパラのハウスを案内してくれた後に事務所で話をしました。
中川
「実は、黄ニラを作りたいんですよ!あれ、500gで5,000円もする超高級品なのでボロ儲けのウッハウッハじゃないかと思って!」
安東さん
「黄ニラですね。今、下の方のハウスが空いてるので、そこでならやれますよ!」
中川
「えぇぇ! 空きがあるんですか! ただ、私は作り方も何も知りませんよ!」
安東さん
「たまたまね、僕の知り合いで黄ニラ作ったことある人がいて、その人も色々教えてくれるって言うんですよ。あと、今度黄ニラの産地である岡山に視察に行きましょうよ」
中川
「ぜひ! じゃあ、私も黄ニラについて色々調べたりしておきますので」
安東さん
「ニラって年間で7~10回転くらいはできるらしいんです。育てるのがすごく難しいみたいなんですが……。上手く行くかわかりませんが、とにかく新しいことってやってみたいですよね!」
というわけで、佐賀の名産の一つが黄ニラになる日を夢み、私もできることをやっていければな、と安東さんにお会いして心を新たにした次第です。さて、続いては様々なイベントをプロデュースするアフロマンスさんをピックアップし、同じく太良町の屋外サウナへ。
ここは、太良町の道の駅で「漁師の館」を運営する「山神キタムラ」の町中龍司さんが始めたサウナです。まだ制作途中なのですが、地元を愛する町中さんが「人が自然と集まる場所を作りたかった」と手作りで作業をすすめています。知り合いがやってきて薪を割ったりドラム缶風呂を設置したり、サウナテントを設置したり、ということで地域の活性化を目指しています。
町中さん
「いやぁ~、僕は太良町が大好きなんですよ。ここから見える有明海がすごく良いんです!」
町中さん
「こんなに素晴らしい景色があるんですよ! そして、誰かが来てくれたらまたその人がいい人を連れてきてくれる。自然とそういう人が集まり、楽しいことをみんなでやる」
中川
「いやぁ~、オレも今日、ここ好きになりましたよ!」
町中さん
「そしてね、うちの娘、将来どうするか悩んでいて『都会に出ようか』とか言っていたんですよ。それなのに僕がここでサウナやったりしているのを見たら『お父さん、私、都会にこだわらなくてもいいんだね。だって太良ってこんなにいいところだもんね』なんて言うんですよ。もちろん都会に行くのもいいけど、彼女にとっての居場所ってのもここにはあるんだよ、ってことを知ってもらったのは僕にとっても嬉しいですよ」
という町中さんの「太良愛」を滔々と語っていただいた後は、サウナ用の薪割りをします。私は根っからの不器用なため、斧を木に当てることさえ難しい。そんな中、ヨッピーさんはスパーっと薪を割り続けます。そして、皆が下半身をまとう衣服一丁になり、サウナへ。町中さんは有明海の「潟」を用意してくれていました。要するに干潟の泥ですね。ムツゴロウが潜んでいるアレです。
それには前例があり、2016年7月、東京・青山で佐賀県のPRとしてアフロマンスさんが企画した「GATA-BAR(ガタバー)from SAGA」というぶっ飛びまくった企画がありました。これは、アノおしゃれな青山で、客が干潟の泥が入ったプールで酒を飲み、食事をするという酔狂な空間。
この時使ったプールを町中さんのサウナでは冷水を入れて体を冷ませるようにしているのです。そこで町中さんがギョーテンの提案を!
町中さん
「潟、持ってきてますよ! これ塗ってサウナ入りませんか?」
ヨッピーさん
「えぇぇっ! なんか薬効があったりするんですか?」
町中さん
「それは知らないですけど、なんか楽しそうじゃないですか!」
中川
「テントサウナ、泥がついて汚れませんか?」
町中さん
「別に構わないですよ。さぁさぁ、塗った塗った!」
というわけで、我々は泥を塗り始めたのですが、背中には自分では塗れないため、互いに塗り合うようになります。これがミョーな一体感をもたらすんですよね。
かくして我々泥人形集団は集合写真を撮ったりキャッキャウフフな乙女的な動きをしながら、いざサウナへ! 町中さんがガンガン水やほうじ茶をサウナ石にかけ、タオルで扇ぐためとんでもない暑さ! しかし、コレが気持ちイイ! いやはや、こりゃ本格的サウナじゃないですか!
これ以上は耐えきれない! というところで外に出たらほどよい涼しさがあり、冷水を体にかけて泥を極力落とし、冷水にジャブン! ひゃー、こりゃ気持ちんよか! 有明海に沈む夕日を見ながら42度ほどはあるドラム缶風呂のお湯に入ってこの絶景を見ることこそ、まさに人生の楽園。嗚呼、オレの東京での殺伐とした生活は一体なんだったんだろう……とこの時しみじみと思ったのでした。
サウナには結局3回入り、大量の汗をかいたら続いてはビールでしょう。町中さんのスタッフが待つ「漁師の館」へ。ここでドバドバとビールを飲んでいたところ、やってきたのはドーンと積まれた竹崎カニ!
町中さん
「どーだ! これが有明海自慢の『竹崎カニ』だ!」
ここからはトーゼンのごとくシーンとした空気の中、カニの殻をバキッと割る音とじゅるじゅるとすする音、「ビールおかわりお願いします!」の声でワシワシとカニを食べ進めていきます。このあとはカニ釜飯で締め、満腹満足の豪華な宴となったのです。そして、町中さんが「安いよ」と言った通り、これだけ飲み食いして東京では考えられないギョーテンの安さでした(具体的金額は言わないけど)。
かくして町中さんと再会を約束し、我々はヨッピーさんの運転する車に乗って唐津のお試し住宅まで連れて行ってもらい、この日は夫婦でぐっすりと眠り、この日の疲れを癒したのです。いや~、引っ越してきて大正解!
次の日は唐津市呼子へ行き、名高い「呼子のイカ」を食べました!
これはコリッコリでめちゃくちゃウマい!ビールが進みます!
その後、ハートマークのオブジェで知られる波戸岬へ。焼き台でサザエやアワビを焼いてもらってビールをぷはーっ。
その後は武雄へ行き、「御船山楽園ホテル」へ。ここは2年連続で「サウナシュラン」の1位を取った名サウナです。
さらには武雄神社の「大楠」を見た後、焼き肉店へ行き、九州のサウナを盛り上げるべく活動している「九州とサウナ」の若いメンバーも合流して、「オレ達はこれから九州のサウナを面白くするぞー!」と男闘呼達は咆哮を上げ、この日の夜は更けていったのでした。
いやー、楽しかった!
その後も唐津市で生活をしながら、県内の様々なイベントに参加。
武雄市で行われた「屋外サウナ」イベントで汗をかきまくったり、ラーメンの名店「来久軒」へ行き、世にも不思議な「ラーメンを待つ間はおでんを食べる」という経験もしました。いやぁ~、スープも全部飲んでしまうほどの絶品でした。
あとは後日、呼子から近い場所にある「七ツ釜」にも行ってきまし
ちょっとちょっと、これって「日本のハロン湾」じゃないっすか! ハロン湾ってベトナムの世界遺産のことですよ。
こんないい場所、隠し持っていたのか、佐
こちらは有田町の「秋の有田陶磁器まつり」。
この日はエスニック料理のケータリングトラックの男性が「テレビブロスの中川さんですか?」と声を掛けてくれました。なんと、私がかつて編集していたブロスの読者でした。これはこれはビールを買わねば! と「ケータリング・ケータロ」でビールとガパオ飯の幸せなひと時を過ごしたのです。
佐賀県生活振り返り
さて、ここからは唐津に移住してからの一か月半を振り返ってみたいと思います。結論を言うと「東京から引っ越してきて良かった」ということになります。何しろ、これまでの固定概念をことごとくぶっ壊される経験をし、モノカキとしての視点が増えたように感じられたのだから。
「日本の地方」という視点は正直欠けていました。欠けていることは理解していたのですが、想像とまったく違う。東京と地方、どちらが優れているというわけではなく、「まったく違う」のです。それは今後の執筆活動を新たな局面に持ち上げてくれるはずです。日々の生活の面が改善されたばかりでなく、仕事でも新たな可能性が生まれたと感じています。
当然、東京でもろもろ「やり切った」と思えたからこそ今のような心境になっています。そもそも、ほぼノンストップで労働を23年し続けた状態というのは、東京の広告・出版・ウェブメディア業界という特殊な業界に身を置いたからでしょう。今はあくまでもセミリタイアしたライターとしての仕事がほとんどで、しみじみと「ようやく人間らしい生活ができるようになった」と感じています。以下の点は、東京では達成できなかったことです。何しろ競争が激し過ぎたし、仕事が多過ぎて仕事か酒以外もはややることがない。
・新聞や雑誌をゆっくりと読めるようになった
・書評等「仕事」で読む以外の本も読めるようになった
・知人の車に乗ってドライブができるようになった
・週末はヨットに乗って和気あいあいとした時間を過ごせるようになった
・その後は日が暮れるまでヨットハーバーで釣りができるようになった
・週末に遠征して釣りができるようになった
・マウンテンバイク等アウトドアのアクティビティができるようになった
・日中からサウナに行ったり、ファミレスでボケーっと過ごせるようになった
・お世話になった人のためにギフトをじっくりと選べるようになった
これらはもしかしたら地方に住む多くの人にとっては「ごく普通のこと」と感じられるかもしれません。しかし、私にとってはかなり特別なことです。
500円の容器をスーパーで予め購入しておき、スーパー訪問の都度20円払ったら3リットルのアルカリイオン水が汲めるサービスがあります。本当に些細な幸せなのですが、この容器をリュックに入れる瞬間「オレは生きている」と感じられ、とぼとぼと西日が落ちる中、畑の脇の道を歩き、農作業をする人や車を運転していると「みんな生きているんだ」と思うようになった。なんというか、非常に小市民的な感覚を覚え、スーパーの個々の客や店員の人生や地域に住む人々に思いを馳せるようになりました。
あと、車社会なだけに、高齢女性や専業主婦も車に乗っています。そういう方々は、私が横断歩道を渡ろうと待っているとかなりの確率で止まってくれる。その時にそこはかとない優しさを感じ、思わず会釈が出てしまうのです。
東京では自分の人生しか考える余裕がなく、スーパーの客や自動車の運転手の気持ちや人生など考えることはありませんでした。しかし今、唐津という小さな街なだけに、繁華街で同期の澤田さんと飲んでいたら彼の知り合いがいて、そのまま合流して飲みとなる。そこで出会った男性とは翌日のBBQでも出会い「あら、お二人は知り合いでしたか!」みたいに言われ「昨日会ったばかりです!」という会話に。
さらに翌日、移住支援に取り組むNPO法人「まつろ」の事務所にいたらその男性が外で電話をしていて、事務所の中へ。「3日連続ですねぇ!」という会話になり、家を探していることを伝えると「私の知り合いが不動産屋やってるので、今電話してみましょうか?」と電話をかけたらなんと向かいの市役所にいてそのまま来てくれて家探しを手伝ってくれる。結局彼女が紹介してくれた部屋を借りることになりました。
不思議なもので、佐賀県は人口が80万人と東京都世田谷区よりも少ないため、私が出会う人々は大抵共通の知り合いがいたりすることが多いように感じられます。それは「外の人を受け入れる」「何か新しいことをやりたい」という人が県内で市をまたいでかなり繋がっているからではないでしょうか。佐賀県のそうした先端的な人材はどこかで繋がっていて、そして佐賀県庁や各市役所の職員が人と人を繋いでいく。かくして初対面の時に「あなたのことは聞いていました」みたいな話になるのですね。
先日飲んだ、若い男性は移住者です。彼はこう言っていました。
「佐賀に来てから会う人は面白い人が多いし、フレンドリーな人が多いです。でも、それは活発な人たちが自然と連携するようになるからではないでしょうか。僕自身、田舎の閉鎖的な空気を感じることはありますし、こちらが頑張って観光客を誘致すべく企画すると地元民から『車が増えて困る。前のようにスムーズに私は運転できなくなった』という意見が来たりすることもあります。地元を元気にしたいと思って頑張ってるんですけど……とは正直思いました。そんな意見はありながらも、新しいことをやりたかったり、色々なことをやりたかったら、そういう活発な人たちと連携していけばいいのかな、とも思います」
おそらく移住者同士というのはそうした空気になるし、地元を活性化したい人も同じような感覚を得られる。これは全国各地の非大都会で展開されている風景だと思います。
だったら次に出てくる疑問としては「なぜ佐賀なのか?」ということになります。それについては正直佐賀でなくても良かったかもしれません。しかし、現状私は上記のような体験ができていることから「佐賀は心地よいな」という気持ちでいます。地方の某所に拠点を移した知り合いは、町内会に入ることができずゴミ捨て場を使えずゴミを捨てる時は大家さんの家に持っていくと言っていました。これは極端な例かもしれませんが、「よそ者」を排除する場所というのは必ずある。
そんな中、人口11万人の唐津市は丁度良い距離感があり、過度な干渉もなければ、排他的な空気もありません。もしかしたら他の県に住む選択もあったかもしれません。しかし、どこに住むかのすべては偶然と人の縁に依るものです。私の場合はヨッピーさんが声を掛けてくれたというだけで佐賀に来ましたが、結果的に当初1ヶ月半で想定していた以上の気のいい人々と知り合えました。
さらに佐賀は福岡へのアクセスも良く、私が住む唐津駅から博多駅まで電車で1時間半、高速バスなら1時間15分。どちらも乗り換え無しです。これがもっと福岡寄りの佐賀駅なら片道約40分、さらに近い鳥栖なら約20分で博多駅まで出られます。東京と神奈川、東京と埼玉や千葉といった関係性に近いかもしれません。
おかげで、福岡に住む人たちが唐津まで来てくれたり、旧知の方々に会う時も気軽に福岡まで出れるなど、「新しい人生を始めて良かった」としみじみと感じる日々です。
それでは、佐賀で食べたおいしいものをズラリと並べてみますね。
とにかく佐賀のメシは安くて美味いです。そしてスーパーで買える魚も安くて鮮度が良い。
昨日は博報堂ケトル軍団と赤坂太一さん @taichi_akasaka さんと正午からやってる飲み屋へ。少女漫画を大量に蔵書している「少女まんが館Saga」 https://t.co/xZEv5WY4iX の池田愛子さんも最初来てくれた。同期の澤田と合流し夕方は屋台街へ。やばい、今後通ってしまいそうだ…唐津は呑兵衛天国だな pic.twitter.com/wUeLVfhIEJ
— 中川淳一郎 (@unkotaberuno) December 13, 2020
飲み屋も意外とたくさんあります。唐津には土地に根付いた屋台・居酒屋さんも多く、そして安くて美味い。たまに飲みに出かけ、基本的にはスーパーで買った地場の食材を自分で調理して食べる生活を送っているのですが、佐賀に引っ越してからは21時に寝て、5~6時に起きるという生活になっています。
朝、近くのコンビニまで新聞を買いに行き、ちょっと散歩して家に戻る。この時間がとても大切な時間のように思えます。東京に住んでいる頃は時間に追いまくられる日々を過ごしていましたので、こうやって、「今、この時間」をゆっくりと噛みしめる事が出来るのはとても幸せな事ではないでしょうか。
皆さんも、佐賀に来んね!
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