200年以上地元民が魂を捧げ続ける「土崎港曳山祭り」に行ってきた
秋田県秋田市で行われている土崎港曳山祭りの見どころを、お囃子担当の方に伺いました。町内を巡るコースや、曳山に使われている人形などをご紹介します。
「ヤマを動かす祭りがある」
それを聞いたとき、秋田にはなんとスケールのでかい、そしてロマンのある祭りがあるのかと思いました。
毎年7月20日・21日の2日間、秋田の港町・土崎で町をあげて行われる「土崎神明社祭の曳山行事」(通称「土崎港曳山まつり」)のことです。
昨年11月に訪れたときは、見かけた人の数よりも風力発電機のほうが多かった町に、県内外から多くの人が訪れ賑わいます。
この祭りに対する地元の人々の期待は高く、期間中は「祭り」が生活の中心といってもいい存在になります。
土崎駅に降り立った女子高生に「今日晴れてるね!」と聞くと「祭りだからね」と返ってくるほど。
住人にとって、祭りとはお天道様の都合さえも変えてしまうほどの大きな存在なのです。
駅前のお店には、こんな張り紙も。
地域の学校も、この二日間は平日だろうと「祭りだから」という理由で休みになります。人々の祭りへの期待と、力の入れ具合は本気です。
そんな、”男鹿のなまはげ”や”秋田竿灯祭り”よりはちょっぴりマイナーな、でも真夏の太陽よりもアツい魂がこもった「土崎港曳山まつり」を今回はご紹介したいと思います。
とはいえ県外育ちの私が外から祭りを見ていても、見どころがよくわかりません。
そこで今回は気になるポイントを、上酒田町の曳山でお囃子を担当していた大輝さんに伺うことにしました。
目次
地元の人も知らないことがある?!「土崎港曳山まつり」とは
「土崎港曳山まつり」は、土崎の各町内から出された曳山(ひきやま)という山車を2日間、お囃子の演奏と共にひたすら引いて、町内を練り歩くお祭りです。
祭り一日目:山車が町内を巡る意外な理由とは
大輝さんいわく、お囃子は出発の15分ほど前に「お祭りが始まるよ~~!!」と近所の人々を呼び寄せる「寄せ太鼓」を叩くのだそう。
そのために初日・二日目ともに出発の2時間前には集合し、楽器の向きなどを綿密に話し合いながらセッティングするとのことです。
「初日はどのように移動しているのでしょうか」
「僕がいた上酒田町を例に話すと、20日は朝8時に会所前の駐車場から出発します。
町内会それぞれには、町内会の祭壇を飾った『会所』があって、基本その周辺に山車を納めておきます。会所を出てからは、午前中に土崎の総鎮守府(※町一帯を守る神社)の神明社を詣でて、昼まで町内を囲むようにぐるっと周り、途中、土崎駅や老人ホームなどで演芸(秋田節などの踊り)を披露しながら会所に戻ります。昼食休憩をはさんで、午後は夕方にかけて、それぞれ好きなコースを周る感じかな」
「神明社への参拝は、町内によっては午後の場合もありますね。20日は神事というよりは、神明社に参拝する道すがら、山車を皆さんにお見せして寄付を集めるのが目的です。土崎全体のお祭りなので、その家が入っている町内会だけじゃなく、山車を出す町内会にも寄付金を払うのが習わしになっています」
そういえば山車の列とは外れて、集金隊が各家庭に訪問している様子も見かけました。さらりと祭りのおカネ事情について教えてくれましたが、これは載せても大丈夫なんでしょうか…
▲山車のコースが重なって、すれ違う際に立ち往生することも。そのときでもお囃子は鳴りやみません。
「今年は穀保町と新城町と、三町内合同で共演しようということになっていました。夕方に会所らへんに戻ってきたんですが、最終的に山車を(会所に)納めたのは19時くらいだったかな?」
祭り二日目:地元の人は神事の内容を知らない!?
「21日(二日目)は朝8時に出発して、土崎の南端にある穀保町の御旅所(おたびしょ)に向かいます。最後尾の神輿が御旅所に着くと『穀保町御旅所祭』がスタート。それが終わったら今度は、神輿を先頭にして北にある相染町(そうぜんちょう)の御旅所まで演舞とか披露しながらまた列になって向かいます。これが『御幸(みゆき)曳山』ですね。相染町でも『相染町御旅所祭』が行われて、神輿は神明社へ戻ります。曳山はいよいよ、お祭りのフィナーレということで、自分たちの町内へと戻っていきます。これが『戻り曳山』で、大体夜8時くらいから各山が相染町から出発します」
二日間の行程をまとめると、このようになります。
山車が町内を周ることで、各家庭の災いを祓います。
神社や御旅所ではお祓い、祝詞奏上、浦安の舞などが奉納されるというのですが、なぜ町内を行ったり来たりして神事を行うのかはナゾです。
「スケジュールで気になるのが、二日間で計四回も行う神事です。
相当大事な儀式だと思うんですけど、どういうものなのでしょうか」
「実は見たことないんで、知らないんですよね(笑)」
「うそでしょ」
「初めて山車を引いたのは2歳で、中学時代部活を優先した2年間を除けば、生まれてから29年間祭りに参加していますが、知りません(笑)。
神輿が穀保町御旅所に到着すると、お囃子は端から神輿が見えた順に『寄せ太鼓』を鳴らしていきます。それでお祓いしている間に昼食を食べて……神事が終わったら、神輿を送るときに演奏して、すぐに神輿を追って相染町へ出発するので、お囃子や曳き子(曳山を引く人)は神事を見る時間がないんですよね」
日中、町内を歩いていると各所で曳山に出会います。
特に、メーンとなる本町通りには出店が立ち並び、昼は土崎郵便局前に観覧席が設けられているため、山車が通過する際に一度止まって演芸が始まります。
ちなみに各町内会によって衣装が異なるのも注目!浴衣もあればパンツスタイル(not甚兵衛)などあって、見ているだけで楽しいです。
あとラッキーな人は、町会長による味のあるライブパフォーマンス(カラオケ)が見られるかも?
祭りのクライマックス「戻り曳山」
そして21日の夜は、お祭りのクライマックス、「戻り曳山」です。
ライトアップされた山車は、昼よりも一層迫力が増した印象。
また「戻り山」では山車の表裏が変わり、日中は後ろ側にいたお囃子のいるやぐらが前を向いて進みます。山車についてはまた後程詳しくご説明しますね。
曳き子さんにもアルコールが注入されて、動きにも激しさが増します。
その光景は、渋谷のスクランブル交差点並みの人だかりにトラックが入ってくるようなもの。警護隊にも緊張が走ります……。
「ほかのお祭りと比べると、終わりの時間も遅いように感じられますが……」
「本町通りは深夜0時前に山車をはけないといけないので、本町通りに会所がある町内はそれまでに終わります。ですが、通りから外れたところに会所がある町内の中には、深夜3時まで山を納められないところもあります。僕は見たことありませんが(笑)」
ほかの地元の方いわく、一年間準備してきた祭りが終わるのが名残惜しくて、何度も山車を止めながら移動しているのだとか。祭りへの深い愛が伺えます。
朝から晩まで、トラック級の山車を人力で引く
そして気になるのが、引く山車=曳山(ひきやま)。
ケヤキなどの木材で組まれた曳山は、高さ5m、重さ1トンほど。長い綱につながれて、人力で引かれます。
さらっと書きましたが、曳き子のメンバーはほぼ変わらずに、20日の早朝から21日深夜まで引き続けるとのこと。これはちょっとした地獄ではないのか…(中学生までの子どもは、20日は夕方、21日は昼まで参加)。
木製の車輪が回転しやすいように潤滑油がかけられるため、街中、油のニオイがうっすら香ります。このニオイと車輪のキーキー軋む音で、地元の方は「祭り」の期間であることを実感するのだとか。
道路に残った油には、掃除しやすいようにオガクズが巻かれます。早朝の駅構内でよくみられる光景ですね。
ちなみに、曳き子経験者によると、綱の先頭部分と曳山の直近部分は、パワーのある若手が当てられる、いちばんしんどい部分。特攻隊のしんがりみたいなものでしょうか。手にはすりきれた業務用手袋と取れかけたテーピングが。
本来ならばSPOTのためにと『曳山まつり密着48時間!1t台車を引きながら総計40㎞歩いた』とタイトルを引っ提げて臨戦態勢で向かうところだったのですが、大変残念なことに観光者は参加できないとのこと。
今回ばかりは泣く泣く、それこそもう断腸の思いで諦めました。私の剛腕をお披露目できずに大変申し訳なく思います。イヤーザンネン。
力作ぞろい!曳山(山車)のデザイン解説
曳山の上は、表裏で様子が異なります。
表側は、合戦場面を表した武者人形の乗る「人形側」で、人類の総合知・Wikipediaによると「港衆の魂の表れ」とのこと。「外題札」には合戦場面の題名が、「人形札」には登場人物名が書かれていますが、正直合戦場面の詳細は日本史マニアでないと、なかなかわからないかも。
でぇぃやああああ、その首もらったあああああ
なんてアテレコしたくなるくらい、なんとも荒々しい「港衆の魂」。
裏側には箱型のやぐらが組まれ、中ではお囃子衆が演奏します。演目は、20日、21日の御幸曳山、戻り曳山でそれぞれ違い、夜になるほど曲に哀調を帯び、しめやかに奏でられます。
やぐらの上には、時事を風刺する七五調の文が書かれた「見返し札」と、なかなか個性的な風刺人形が。
去年、一昨年と注目を浴びた秋田犬の風刺ネタが多い様子。力作ぞろいです。
この山車は奉賛会に加盟する町ごとに組み立てられ、最終的に土崎神明社に奉納されます。今年は23町内が参加しました。中には44年連続で参加しているところも。
「山車はどれくらい前に準備を始めるんですか」
「人の集まり具合によって、山車を出すか決めます。町内によっては毎年出すところ、3年に一回しか出さないところなどまちまちですね。山車を出すって決めたら、1年前、早いところでは前年の8月、9月に寄付金や人形の手配などを始めます」
「ちなみに、ずっと気になっていたのが、曳き子の“ジョヤサ”という掛け声ですが、どういう意味なんですか?」
「うーん。僕もよくわかんなくて(笑)。
うちは祖父も父も母方も、家族みんな祭りに参加してきたんですが、誰に聞いても意味はわからないって(笑)。調べると諸説あるらしいんですが、公式な記録に残っていないので……。
ただ、祖父のときは“ヨイサ”だった説もあって、父が小さい頃にもそういえば『ヨイサ』って言う人もいたって話していたんですが……よくわかりません(笑)」
地元の人でもわからないことが多い、土崎港曳山まつり。
祭りの花形?! 町中に響くお囃子の音色
「二日間、土崎にいるといつもどこからかお囃子が聞こえてきますよね」
「基本、山車が動いている最中は、吹き続けなければいけません。
お囃子の保存会は町内と別にあって、寺の檀家さんみたいに契約している町内がそれぞれ複数あります。僕が所属しているところは6つ。今回はその内5つの町内で演奏させてもらったんですが、元々この会は笛吹きが少ない会なので、今回僕は出ずっぱりでした(笑) 普段はもちろん、1時間半くらいで交代して演奏しています」
「元々大輝さんは曳き子だったということですが、いつお囃子に転向したんですか」
「小学5年生のときかな。僕が幼い頃、太鼓を見れば寄っていく子どもだったらしく、それを見た父が『いずれはお囃子になるだろう』って考えて、5年生のときに無理くり連れていかれたのがきっかけでしたね(笑)」
「お囃子って難しそうですけど、どれくらいでやぐらに上がれるんですか?」
「まず練習生として入って、その年はたまに叩かせてもらったくらい。その一年後は祭り直前で骨折してしまったので(笑)やぐらに本格的に上がったのは、中学1年生のときかな。
人によっては2年以上かかるけれども、やぐらに上がれるかどうかはその人のセンス次第なところもあります。
特に楽器によってレベル分けされているわけではないのですが……うちの場合は会結成当初、太鼓しかいなかった会なので、自然と太鼓に慣れたら笛に挑戦してみるといった感じで段階を踏みましたね」
土崎に住む人々にとっての「祭り」とは
気になるポイントがたくさんある曳山まつりですが、発祥を探ると、元和6年(1620年)の神明社建立までさかのぼります。土崎湊(港)の船乗りたちが神輿を寄進し、その神輿を担ぎながら、町を練り歩くようになったのが祭りのはじまりです。
神輿から曳山に変わったことを記録しているのはその約200年後、寛政元年(1789年)に記された津村淀庵『雪のふる道』。
「40もの曳山が曳かれ、久保田城下よりも賑わっていた様子が書かれている」(土崎ナビより抜粋)
※久保田城:当時秋田を治めていたエライ人の居城。現在の秋田駅近くにあった。
さらに100年後、明治11年(1878年)発行の『日本奥地紀行』(東洋文庫)(イザベラ・バード著、高梨健吉訳)に、やっと今行われている曳山スタイルの原型が記されています。
これらは「土崎ナビ」という土崎専用公式観光アプリに記されている情報。情報が100年単位で更新されるという大らかさは、祭りが200年以上にわたって代々地域の人々によって伝えられてきた証拠のようにも感じられます。
やがて町民の想いは国、そして世界に認められ、1997年には国の重要無形民俗文化財に、2016年にはユネスコ無形文化遺産に登録されました(山・鉾・屋台行事33件の内のひとつとして登録)。
「祭りも興味深いのですが、土崎出身の人と話をしていて、県外に出た人が祭りに参加できないのを申し訳なさそうにしているのが印象的でした」
「山車を出すとなると、一年かけて準備しますしね。当日だけやってきて、曳き子として参加するというのは心苦しいのかもしれません。
だからなのか、お祭りがあるから土崎を出られないって言う人もたまにいます。観光客の人なら20日の夜にある『ふれあい祭り』で山車を引くことができますが、本番は基本町内の関係者しか引けないので」
「曳き子になるために、土崎に留まる選択をする……。それだけ祭りにかける想いが強いんですね。
いったい、土崎の人々にとって曳山まつりはどういうものでしょうか」
「祭りのない生活をしたことがないから、“祭りがない”という状態がわからないですね(笑)。
特別にこれがあるからと参加しているというわけではなく、祖父の代から、もしかしたらそれ以前から祭りに出るのが当たり前でした。土崎の人にとっては、生活のひとつなんだろうと思います」
おわりに
大輝さんのお話を聞いていて、ふとこんなことを考えました。
私の実家の近くでも、毎年秋に小さな神輿が担がれ、屋台が出ます。もちろん、その土地の神様ならではの伝統的な催しではあると思うのですが、地域と自分の結びつきが見えてこないためか、町内会や神社の営みがどこか他人事のように思えてしまいます(私がただ地元の歴史や縁に無頓着なだけなのかもしれませんが)。地元の美味しいご飯屋について雄弁に語ることはできます。でも、地元になにか特別な思い出があるわけではないし、仲の良い隣人がいても彼らの背景を知りません。
曳山まつりは、外の人間から見れば楽しげなイベントのひとつです。しかし地元の人々にとっては「その土地で生きていくこと」と密接に関係している出来事です。祖父母から親へ、親から子へと一本の糸を紡ぐように――さらに言えば、ひとつの家族だけではなく町全体で紡がれてきた歴史ある祭りです。紡がれた糸は、200年以上の歳月を経て強くて太い綱になり、山車を引いています。
相手の今を知らなくても、角を曲がれば友人の家が見え、昔の顔なじみと再会する土崎の町。土地が結んだ縁、地元ならではの結びつきに、多少の重たさを感じることもあるでしょう。それでも、歴史ある郷土や地域を媒介とした人々の縁を、住処を点々としてきた私はうらやましく感じます。縁もゆかりもない曳山祭りについて私が調べた背景には、そんなちょっとした嫉妬心があったからかもしれません。
二日間の興奮は夜明けとともに鎮まり、土崎はまた穏やかな町に戻ります。
次回は新元号第一回目。新たな町の歴史を築くために、一年間、人々は熱を蓄えるのでしょう。
都会での生活に寂しさを覚える人は、「土崎港曳山まつり」で人の縁の温かさに触れてみてはいかがでしょうか。