太宰府を臨む絶景!歴史観光ガイド〜九州戦国物語 岩屋城の挽歌〜

太宰府を見下ろす夜景でも有名な展望スポットとしても有名な岩屋城跡の歴史をひもとき、史跡としての魅力や周辺グルメまで全て紹介します。西暦1586年(天正十四年)、島津家約5万の軍に対し大友氏、高橋紹運率いる763名が14日間にわたり死闘を繰り広げた歴史を知ると、観光がもっと面白くなるはずです。

時は戦国、西暦1586年(天正十四年)七月
筑前国四王寺山のお話——
(四王寺山:今の福岡県 太宰府市、大野城市、宇美町の境にある山)
…そして現在2021年
こんにちは漫画ライターのぞうむしと申します。
ここは岩屋城本丸跡。夜景の美しさでも有名な四王寺という山の中腹にある、福岡県の街並み、太宰府を一望できる古戦場です。
約400年前、この場所で、九州制覇を目論む「島津家」と「大友氏」との死闘が繰り広げられました。
その合戦の名は「岩屋城の戦い」。
島津家(後の薩摩藩)約5万の軍に対し、
大友氏 高橋紹運 率いる763名の14日間による戦い。
島津との14日の死闘の末、紹運はどうなったのか??
今回は太宰府を代表する観光地となった岩屋城跡の歴史をひもときながら、史跡としての魅力や周辺グルメまで全てご紹介します。
なお、以下の歴史紹介を執筆するにあたり、吉永正春 著九州戦国合戦記 増補改訂版』を参考にさせて頂きました。

天正14年(1586年)岩屋城を取り巻く情勢

天正十四年、九州全土に覇を唱える島津家は、部隊を3手に分け薩摩(鹿児島県)より筑前(福岡県)へ急がせた。その目的は、大友氏の要請に応じ九州征伐の大軍派兵を決定した関白豊臣秀吉軍を下関で阻止すること。
鬼島津」の異名に相応しい圧倒的、烈火の如き勢いで進軍し、戦況は島津軍の優位に進んでいた。

軍勢を率いて九州上陸を目指す豊臣秀吉

九州制覇、豊臣軍を阻止すべく、北上する島津家・島津忠長

その頃、最前線となる四王寺山 岩屋城では、島津軍の思惑を打ち砕くべく立ち上がった男たちが覚悟を決めていた。
大友家 二大巨頭のひとり、猛将 高橋紹運と一騎当千の侍たちである。
島津軍は5万の大軍勢による力攻めでの岩屋城攻略を決定し、大友氏は沈みゆく船のような状態。絶望的な戦局の中、「良い時にだけ尽くす義と忠ならば獣鳥でもできる」と紹運は岩屋城で玉砕する覚悟で戦に臨むのだった。
妻や老幼婦女子は宝満山へ避難させており、城に残ったのも志を同じくする忠臣たちであった。
紹運は若い侍に話しかける
「おおい、ぬしゃ、やや(子ども)が生まれたばかりじゃろ、早よう城を出ろ。」
若侍
「どうかお供させてください、殿とここで戦える、今こそ武士としての本懐を遂げる時。お計らいにより生き延びた我が子、その末裔が、いつかこの地に花を手向けてくれることでしょう」
 程なく、岩屋城に味方の使者、立花家の重臣、十時摂津守(孫右衛門)が訪れた。
孫右衛門
紹運さま!岩屋城を退き、難攻不落の立花城にて共に戦いますよう、命がけで説得して参れと我が殿、統虎さまより命を受けて推参致しました!」
紹運
孫右衛門、ご苦労である。統虎がそのような無理を申したか」
(注:立花統虎(宗茂)は、紹運の長子で立花道雪の養子。後に太閤豊臣秀吉から戦国最強の武士と称された人物。)
紹運
「立花城の皆に伝えよ、統虎の心、父としてしかと受け取った。だが、この戦いは天下泰平への一大事、この紹運の義と命を賭けるに相応しい場所と思っている。
戦は兵の数ではない、天武天運を信じて戦えば、島津の足を止め、兵の三千は削れるだろう。秀吉殿下の援軍到着まで立花山城を支え抜けと伝えよ。」
統虎と立花家の家臣たちは、紹運と高橋家の家臣の覚悟を知り、大粒の涙を流したという。
せめてもの助太刀をと次々に名乗り出た者の中から吉田右京を筆頭に、選ばれし二十人の決死隊が、岩屋城へと向う。

清水原合戦で功績を挙げた吉田連正(右京)。これより1年前に筑後の陣中で没した雷神の化身、立花道雪も認めた剛の者である。

開戦前夜、闇に紛れ、決死隊は岩屋城に到着。
紹運
「右京……ぬしたちは、わしの言葉は聞いとらんかったんか?」
右京
「はっ!しかと聞いております」
紹運
「ならば今すぐ来た道を戻り、立花城を守れ」
紹運は決死隊を睨み付けるが右京たちは一歩も引かなかった。
右京
「どうかこの戦の末席にお加えください、我ら決死隊、道雪親父殿の魂と共に参りました。」
筆頭家老北原
「がはは!それを言われたら返す言葉はござらんですなぁ若!
紹運
「……ぬしら決死隊千人力の扶翼、薩摩者は肺腑にしみるであろう」
かくして、763名の獅子たちと島津5万人の戦いが始まろうとしていた。
開戦直前、島津軍は降伏勧告の使者を出す。
「高橋軍に対しての戦ではない、城を明け渡してくれるならば和議を結びたい」という島津の高橋紹運軍にとって有利な申し出に対し、紹運は徹底抗戦の構えを見せた。
「遠慮は無用、存分に攻められよ。我らの命と刃でおもてなしいたします。」
使者の言葉を聞いた島津忠長「紹運殿の数々の武功は聞いてはおるが…噂にたがわず簡単な相手ではないの~」

天正14年7月14日 岩屋城の戦い開戦

島津軍の強襲、力攻めの総攻撃が始まる。
岩屋城の山肌を一気に駆け上がり襲い来る島津兵に対し、高橋紹運軍は城中より、鉄砲隊、巨岩、大量の釣り石、大木を落とし応戦。島津の軍勢は手足、頭蓋、身体中の骨を砕かれ谷底へ落ち、多くの死傷者が出たという。
両軍の太鼓や鉄砲の轟音、死にゆくものの断末魔が昼夜問わず、丸二日間鳴り響いたという。

忠長「バテレンかぶれの少人数相手になんばしよっとか!薩摩隼人の恐ろしさばみせつけちゃれぇい!!」

島津忠長は自ら陣頭に立ち、駈るが、岩屋城の鉄壁の守りに攻め入ることができなかった。島津軍の屍は山のように重なってゆく。
開戦より八日目、
真夏の太陽が兵士の具足を照らし、灼熱の戦場が血で染まり、両軍の命を削る。
十日目
事態は動きを見せ始める。
岩屋城の水源を見つけ出した島津軍は水の手の破壊に成功し、再び攻勢を強める。
乾ききった身体で紹運たちは応戦。疲弊すれども兵たちの士気は衰えず、負傷者さえ立ち上がり敵に斬り込むなど、凄まじき闘争心と団結は島津軍を驚愕させた。
十一日目頃
突然の大雨が岩屋城の兵たちの乾きを癒し、城の山肌は土流と化し、島津軍の足を止めた。
紹運
「……右京、皆を本丸に集めよ」
右京
「御意」
岩屋城本丸——
紹運
「この雨で敵方も攻めてはこれまい、今日は存分に疲れを癒してくれ。」
家臣たちは動こうとしない。
紹運
「今日まで半数近い、大切な我が家臣たちが先に散って逝った。雨が乾けばその時、この岩屋の最後の戦いになるだろう。
しかしこの戦、負け戦にあらず。
秀吉殿下の援軍も刻一刻と、この九州の地に向かっている。最後にひと暴れ、我ら気概の刃となりて大友武士の名を、天下に百年刻みつけようぞ。」

運命の7月27日


寅の刻(午前六時)、島津軍は5方面より総攻撃開始。
押し寄せる大軍に紹運軍の奮闘は凄まじく、死力を尽くし戦う。
大手門が突破され、福田民部小輔、以下全員討ち死に。
本丸登り口の萩尾麟可、大学、以下全員討ち死に。
紹運は本丸で指揮をとり、数珠を片手に経を唱えて死者を弔い、負傷者には薬を与え、励ましていた。
——吉永正春九州戦国合戦記 増補改訂版』より
そして高橋紹運にも最後の時が訪れる。
前後におびただしい数の敵兵が迫る中、右京と共に敵に突入。
紹運は17人斬り倒したと伝わる。
城内の生存者はわずか五十人、その大半は負傷し、紹運の身体も数か所の斬り傷を負っていた。大勢の敵兵にはいかんともし難く、落城は目前に迫っていた。
「もはやこれまで!右京!見事な働き、大儀である!来世にて、また共に戦場を駆けようぞ!!」
紹運は血塗れの姿で燃えさかる櫓に立ち腹を切る。
介錯は吉田右京が務めた。
崩れゆく本丸、紅蓮の炎の先に島津兵の影が揺らぐ。
「この先は一歩も通さぬ」右京は大太刀を構えた。
高橋紹運  三十九歳 没
残った紹運の家臣たちも敵に斬り込み、玉砕。またあるものは自害、763名全員討ち死にした。
嗚呼
壮絶也岩屋城
岩屋城は陥落こそしたが、紹運軍の勇戦により秀吉軍は九州に上陸。犠牲者約4000人を出し、兵を引かざるをえなかった島津軍の覇道は潰えたのであった……。

謝辞

引用、参考、参照文献
・吉永正春、九州戦国合戦記 増補改訂版』、海鳥社(2006年7月)
物語部分 監修:藤田藤栄
これは個人の感想ですが、紹運たちが戦わず、豊臣援軍が間に合っていなかったなら、その後の明治維新にまで影響して歴史は変わってたかもしれませんね。
以上の歴史紹介を書くにあたって九州戦国合戦記 増補改訂版』を参考にさせていただきました。
戦国といえば信長や政宗、九州より北の地域、人物が有名ですが、吉永先生の著書で九州戦国の魅力を知りました。
そしてこの著書と岩屋城の物語を知るきっかけになった、地元の歴史家、藤田さんに物語の部分を監修していただきました。
吉永先生と藤田さんの言葉で出来た記事です。ありがとうございました。

壮絶な戦いの跡を巡る、岩屋城跡ガイド

さあここからは巡礼、現在の岩屋城跡をご紹介します!
まずは車で太宰府天満宮側の道から展望台「焼米ヶ原」を目指すのが一般的なアクセス方法です。
焼米ヶ原の駐車場に車を停めたら岩屋城を目指しましょう。テクテクと1キロほど下る道になります。

この看板が目印です、車で登るときにチェックしておけば安心です。
紹運や侍たちが歩いたに違いないこの1本道を登れば・・・
ドーン! 嗚呼壮烈岩屋城址
後年、高橋家の子孫により設置された石碑です。
この場所が岩屋城本丸。紹運が最期を迎えたまさにその場所に立っていると思うととても感慨深いです。
今は福岡の街並みが一望できる絶景スポットになっています。
高橋紹運と忠臣達は、最期の日々にこの美しい眺めを見て何を思ったのでしょうか。
昔の道は現代のように広くなく、牛一頭が通れる程の広さだったと聞きます。
こんな感じの道を島津の鬼武者たちが登ってくるのを想像するだけでも恐ろしいです。

本丸から降りたところには「二の丸」。
ここには紹運と763名のお墓があります。
20年ほど前、ここでお参りしている50代くらいの男性と女性に出会い、「こんな若いひとが、ここに来てくださるなんてねぇ」と嬉しそうに話しかけてくれました。話を聞くと、おふたりは400年前、紹運と共に戦った家臣の末裔の方でした。

今、本丸、二の丸に行く道は歩きやすいように石が埋め込んで整備されとても綺麗に維持されています。
子孫や有志の方々のおかげなのでしょう。ぜひ、この場所で歴史の風を感じてみてください。

あわせて見たい、焼米ヶ原からの眺め

せっかくなので車を停めた焼米ヶ原で景色を楽しんでみます。

広々と開放感のある道。
焼米ヶ原から見る太宰府の眺め。
この日はとても気持ちの良い風が吹いてました。
岩屋城跡アクセス
焼米ヶ原の駐車場に車を停め(ハイキング気分で)岩屋城まで歩きます。
看板が出ていますので、分かり易いです。
住所:福岡県糟屋郡宇美町大字四王寺126

四王寺といえば夜景

展望台からの景色も素敵ですが、岩屋城本丸から眺める夜景は本当に絶景でした。
ただし、駐車場からの道は照明も皆無で人通りが少ないため、夜、気軽に行くのは危険でおすすめできません
山を下りれば西鉄太宰府駅です。
ちなみにこの駅は、週刊少年ジャンプで大人気連載中の『呪術廻戦』人気キャラクター「五条悟」のご先祖さま「菅原道真」が祭られている大宰府天満宮最寄りの駅です。

太宰府近郊のおすすめグルメ

岩屋城に向かう道中や帰り道で食べたり買ったりしたお店をご紹介します!

九州自動車道、基山SA上りのロッテリア限定バーガー

実は基山SAのロッテリアには、ここでしか食べられない「華味鳥バーガー」(470円)があるんです。
華味鳥バーガーは2種類、「ゆず胡椒マヨ仕立て」と「醤油の唐辛子マヨ仕立て」。
どちらも九州人が大好きな味ですが、今回は「醤油の唐辛子マヨ仕立て」を食べてみました。
うめーす!!ザクサク!カリッ!っと揚がった華味鳥の唐揚げと相まって口の中で旨みと香りが広がります。
関東の醤油とは異なり九州醤油はほんのり甘味があります。レタスの歯応えとフレッシュな爽やかで食が進みます!
ロッテリア 基山パーキングエリア上り線店
住所:佐賀県三養基郡基山町小倉字小浦2099番地1 基山PA(上り)
電話:0942-81-0430

SAでおやつの鯛焼きを、筑前鯛笑 基山店

宇美八幡宮本店もありますが、わざわざひと区間、高速に乗ってでも食べに行きたいのが筑前鯛笑 基山店です。
エッジと丸みが両立する、食べる芸術と言っても過言ではない鯛焼きを提供しています。
必ず食べる「究極の金」(180円)という名のカスタード。
…じいいいいん…
「がわ」がサクサクで香ばしく、中のあんも最高。甘いものをあまり食べないひとも美味しいと思うはずです。
定番は「究極のくろ」という黒餡の鯛焼きですが美味しいのは間違いないので、
本日2つめは「極上のしろ」(180円)を注文してみました。

ああ〜…黒餡よりも控えめであっさりしてるんだけど、いんげん豆の風味と甘味が柔らかい!
今まで意識して食べたことなく、色が違うだけかと思っていたら材料が違うんですね。
くろは北海道十勝産小豆、鯛笑さんは原材料にもこだわったお店です。
昨今のスイーツブーム、和も良いですねぇ。
筑前鯛笑 基山店
住所:佐賀県三養基郡基山町小倉2097-1 基山PA(上り)
電話: 080-3694-2124

福岡鉄板のおみやげ「博多とおりもん」


おみやげとして大人気の「とおりもん」560円)地元民の自分も買っちゃいます。
レンジやトースター、お好みの温め方で食べてみてください。工場で出来立ての味が再現できて、バターの香りが増しますよ~。
そして冷蔵庫で冷やして食べても美味しいにくいやつ、とおりもんよかろうもうん

大宰府みやげといえばこれ!「梅が枝

基山SAにも売っていますが、せっかくなので太宰天満宮近郊を散歩しながら購入しました。
モチモチで美味しいですよ~。
出来立てが買えればラッキー(個人的に)固めの触感が楽しめます。
普通はラップに包まれているので、柔らかくなっています。

まだまだ語り尽くせない太宰府観光

いかがだったでしょうか?
太宰府市近辺は紹介しきれないくらい、興味深いSPOT、グルメなお店がたくさんあるだけでなく、岩屋城跡の他にもまだまだ魅力的な歴史を持つ地がいっぱい残っています。機会があればいつかまた九州の戦国物語をご紹介したいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。