四国の全駅制覇とお遍路を同時にやったら大変なことになった【愛媛・香川編】[PR]
「四国全駅制覇をしつつ、お遍路を同時に達成する」という謎の旅の続きに、新年早々でかけてきたpatoさん。今回の旅でも、旅の記録にアプリ「駅メモ!」を使用。前回の徳島・高知編に続き愛媛・香川編を配信させていただきます。(7ページ)
【7日目(最終日)】1月8日 7:00
最終日の高揚感は良いものだ。こういった旅をしていると必ずいつかは最終日を迎えることになる。初日などはとてもじゃないが最後までやり通せるとは思えなかった地獄の旅路も、コツコツと進めば終わりを迎えることができる。その終わりの直前である最終日の始まりは、少しだけ緊張し、少しだけ喜ばしく、少しだけ不安だ。それと同時に訪れる高揚感は何物にも代え難い。この最終日の感情だけは旅をしている人間の特権だと思っている。
お気づきの方もいるかもしれないが、最終日の出発時刻は早朝の7時だ。これはあまり早い時間ではない。これまでは始発があるならそれでいく、をモットーに5時やら6時やらに出発していたが、今日は7時である。これから乗るつもりの琴電長尾線の始発は6時21分なので、完全に始発を逃している。
これには理由がある。単刀直入に言うと夜眠れなかったからだ。実は昨晩、また両足が攣って激痛に苦しめられた。あまりの痛さにのたうち回って、あまり眠ることができなかった。結果、少し遅れての出発となってしまった。そして足は今も痛い。最終日は足のコンディションが鍵を握ると言ったが、最悪のコンディションであると言わざるを得ない。おまけに、
雨だ。
考えうる限り最悪の最終日だ。香川は水不足に苦しめられていて狭い県内に14,000ものため池を有する県だ。つまりそれだけ雨が降らない県ともいえる。そんな県においてピンポイントで最終日に雨が来るのだから、これはもう普段の行いが悪いと言うしかない。
瓦町駅は琴電の3つの路線、琴平線、志度線、長尾線、その全てが交差する重要な駅だ。駅周辺も歓楽街的に栄えている。その規模は四国屈指とまで言われている。たぶん、高松の人は飲みに行くといったらとりあえず瓦町までくるのだろう。そんな街だ。
ちなみに、昨日の夜にこの駅に降り立った時は、成人式後の飲み会らしく、新成人たちがハメを外して大暴れしていた。たぶんタケルもハメを外したと思う。
とりあえず、昨晩の新成人たちの狼藉が幻だったかのように静まり返った瓦町の歓楽街を通り、瓦町駅に向かう。死ぬほど足が痛いので一歩の歩幅がむちゃくちゃ小さい。できれば今日は歩きと自転車移動は無しにしたい。絶対に無理だと思う。
あと、最終日なので「でんこ」を日本縦断の記事で共に旅した「みろく」に変更した。思い出深い「でんこ」なので、ゴールはこの「みろく」と共に達成したい。「みろく」のプロフィールに書かれている「絶対最後まであきらめない」という思いと共にゴールを目指す。
長尾線は高松市内を超えてどんどん山に向かっていく路線だ。最初は多くの乗客が車内にいたが、あっという間にまばらになり、ついにこの車両には3人を残すのみになった。他の車両にはまだけっこう乗客がいる感じだったけど、この車両はなぜか3人だった。
一人は、お遍路さんだった。お遍路用の笠を持っていたので間違いない。豪胆そうなオッサンで、でかいリュックを自分の脇に置き、車両の真ん中くらいの座席に座っていた。僕は進行方向からみて後ろ側の座席に座っていた。
問題は残されたもう一人の方で、完全に剛の者なんだろうけど、駅に停車するたびに駅舎を撮影しようと一眼レフカメラをバシャバシャやっていた。それは別に構わなくて、ああ、駅舎を画像に残したいんだな、その気持ち分からんでもないよ、と理解するのだけどその動きが完全に不可解だった。
その人は前の方に座っているんだけど、電車が駅に停車するたびに、自分が座っている場所では駅舎を撮影できない!と車両の後ろまで物凄い勢いで走ってくる。ドドドドドと音を立てて走ってくる。それもまあ、なるべく良い状態で撮影したい気持ちの表れなのだろうけど、ここからが理解不能だった。
撮影が終わり、電車が動きだすと彼はしんみりと自分が座っていた前の座席に戻る。そして停車しそうになると、ドドドドドドドとまた後ろまで走ってくる。これを3回繰り返した。普通なら学習能力を発揮してあらかじめ後ろの方に陣取るはずである。でも彼は前に座る。前に座って運転席とか見たいのかなと思ったが、観察していると別に見ているわけでもない。
まあ、何か理由があるんだろう程度に思っていたら、4回目のドドドドドドドの後に、真ん中あたりに座っていたお遍路のオッサンが、スーッと僕のところに近寄ってきて、耳打ちするように話かけてきた。
「あいつおかしくね?」
おっさんは豪快な感じでかなり馴れ馴れしい。
「いや、駅舎を撮影したいんじゃないでしょうか」
「それでもおかしいだろ。なんで毎回全力疾走する必要あるんだ」
おっさんはけっこうお怒りな感じだ。
「いや、何か理由があるんじゃないでしょうか。前に座っていたい理由と、駅舎を撮影したい思い。それを両立させようとしてるんじゃないかと」
なぜ僕が彼に代わって弁明しているのか分からない。
「ああいうのイライラすんだよ。次走ってきたらラリアットしてやろうか」
オッサンがラリアットし、彼が空中で一回転する映像が頭の中に浮かんでしまった。
「大丈夫です。そんなにうるさくないですよ。それにほら、もう終着駅ですし」
僕はこういうオッサンのことがちょっと苦手だ。馴れ馴れしい感じもあまり好きではないし、他者に対して攻撃的な部分が受け入れられない。別にドドドドドと走ってもいいじゃない。僕、彼の気持ち分かるよ。イライラしたからってなにもラリアットしなくてもいいじゃない。
僕がそっけない感じなのに気づいたのか、オッサンは少し離れた場所に座って寝たふりしていた。その横をずっとドドドドドって音が流れていた。
そして、ついについに、電車は長尾駅へと滑り込んだ。このお遍路の旅、最後の駅だ。チェックインボタンを押す指にも力が入る。
ここ長尾駅までの駅を取った。香川県の駅全てを取った。よって、以下の称号が貰える。
これにて、「マスターオブ徳島」「マスターオブ高知」「マスターオブ愛媛」「マスターオブ香川」を取得したことになる。つまり四国内の494の駅全てを制覇したことになる。
まずは1つの目標達成だ。あまりに過酷な全駅制覇の道を思い出し、気が抜けて腰が抜けそうになるが、まだ気を抜くわけにはいかない。もう一つ残っている。そう、お遍路だ。
87番札所である長尾寺は、駅名と寺名が同じ時は駅近、という鉄の掟に則り、まあまあ近い。ただ、さきほどの車内にいた嫌な感じのオッサンもお遍路だったので、おそらく長尾寺を目指して移動するはず。同じルートを通ることになるので「一緒に行こうや、それにしてもさっきのやつにラリアットしておけばよかった」とか言われたら嫌なので、ジュース買ったりして意図的に移動のタイミングをずらした。
ちなみに、ドドドドドの彼は、下車したので存分に撮影できると長尾駅をバルログみたいな動きと声で撮影していた。
やはりセオリーに則って駅から近い場所にあった。このお寺は大会陽力餅という行事が有名らしい。なんでも、150キロある大鏡餅をどれだけ運ぶかを競う競技らしく、毎年力自慢がやってきて鏡餅を運ぶらしい。そんなファンキーな行事が毎年1月7日に行われているらしく、今日は8日なので、なんだ、昨日やったのかと痕跡を探してみると、大会の結果が貼りだされていた。
優勝者は150キロの鏡餅を60メートルも運んだみたいだ。どんな化け物だよ。これは是非とも参加してみたかった。1日早く到着できてれば参加できたのだろうか。
さて、ついに残すところ最終の88番、大窪寺だけとなった。ついに覚悟を決めなければならないときがやってきた。
大窪寺までの道のりは地図で見ても分かる通り、険しくて遠い。だいたい20キロくらいありそうだ。鉄道も通っていないし、路線バスもなさそう。おまけに、大窪寺は徳島県との県境にある。地図で見る限り完全に山の中だ。ここからかなり登っていくと思われる。だいたい歩くと4時間くらいかかるようだ。かなり過酷なルートと言わざるを得ない。
雨が降り、足が痛い。けれども覚悟を決めなければならない時がきた。今の足の状態なら倍くらい時間がかかることもありうる。そうなると8時間だ。日没まで辿り着けない可能性すらある。1秒でも早く出発した方がいい。
決めた。行く。
早速、相棒を組み立て、決死のルートへと旅立った。ついに最終局面。果たして大窪寺まで辿り着けるのか。
「おーい、兄ちゃん!」
自転車にまたがった瞬間に、話しかけられた。さっきの嫌な感じのオッサンだ。正直、しまった、と思った。苦手な感じなのであまり関わりたくないと思っていたのに、ついに絡まれてしまった。こんなことならもっと早く決意して出発しておくべきだった。
「兄ちゃん、この雨の中、大窪寺にいくんか?」
オッサンは馴れ馴れしく話しかけてくる。
「はい、行きます」
僕はまっすぐと前を見据えた。もう決意したんだ。
「その小さな自転車で? 兄ちゃん足引きずってたろ?」
久々に自転車の小ささを指摘された。僕はこの自転車を小さいと思わない。今や大きくて頼れる相棒だ。
「足は痛いんですけど、交通機関ないですからね。仕方ないですよ」
僕がそう言うと、オッサンはきょとんとした表情を見せた。
「何言ってんの、交通機関はあるよ。バスがある。」
「うっそ!」
死ぬほど驚いた。それが本当なら決死の覚悟で最終決戦とか言ってる場合じゃない。バスでさくーっとゴールできてしまう。
「長尾駅のほうにいくとバス会社の建物がある。そこで待っていれば大窪寺に行くコミュニティバスが来るから」
神かよ。僕は最初からこのオッサンはいい人だと思っていた。足を引きずる僕を心配して、バスのことを教えにわざわざ来てくれたのだ。だいたい、電車内のドドドドドのやつ、気持ちは分かるけど、僕もちょっとうるさいかなって思っていた。ほんと、オッサンは良い奴!
「じゃあな、俺は歩いていくから。またな」
そういって歩きだしたオッサンにお礼と別れを言い、教えてもらったバス会社まで行く。バス会社は長尾駅から寺とは逆の方に行った大通り沿いにあった。
どこにバスが来るのかなと佇んで待っていると、建物の中から運転手さんが出てきて、「大窪寺?」とか聞いてくる。「出発までまだちょっとあるけど、あのバスだから中で待ってていいよ」と案内してくれた。
コミュニティバスとはいっても普通の路線バスの車両だ。ちなみに、中に両替機はないので、ぴったりの運賃を用意しておいてね、とあらかじめ宣言されていた。
ちなみに料金は距離に関わらず1回の乗車で200円。ただし土日祝日は500円に跳ね上がる。跳ね上がりすぎだろ。今日は祝日なので500円だ。2.5倍になっていると考えるとなんか暴利を貪られているような気分になる。
車内で待っていると先ほどの運転手さんがやってきて出発の準備を初めた。それでもまだ出発まで時間があったので暇だったのか、運転手さんが話しかけてきた。
「お遍路?」
「はい」
「寒かったでしょ」
「かなり。雪降っている場所ありましたし」
などと会話を交わす。運転手さん、かなり朗らかな人で満面の笑顔で明るい感じ話しかけてくる。そのうち、バスに地元の人っぽいオッサンが乗り込んできて運転手さんと会話し始めた。二人ともすげえ朗らかな明るい感じで会話しているのに、その内容が
「○○さんが正月に、火事で焼け死んで」
みたいなかなりヘビーなことを話していた。いよいよバスが出発するぞという時間になると、乗り込んできた地元の人は「じゃ!」とか言ってバスを降りていった。どうやら運転手さんと雑談するためだけに乗り込んできたみたいだ。結果、乗客は僕一人だった。
大窪寺まで20キロの山道を客一人乗せていく。500円は決して暴利ではない、そう思った。これ採算取れないだろ。
バスは、自転車で行っていたら掛け値なしの地獄だったであろう山道を登っていく。もちろん雨も降っている。このバスに乗れて本当に良かった。もうバスが事故して崖下に転落とかしない限り、大窪寺まで到達できることが確定的だ。それはつまり、お遍路の達成を意味する。全駅制覇に続きもう一つの目標も達成する。車窓に流れる山間の風景を眺めながら「達成」という感慨に浸り、同時に「達成」ということについて考えていた。
「僕はあまりにも「達成」というものに囚われていたんじゃあいだろうか」
ふとそう思った。何事も「達成」は素晴らしいものである。努力して何かの結果に辿り着く、これは何よりも素晴らしいことであるし、全ての事象がそうあるべきなのかもしれない。ある事象を最後までやりきる人、結果を出す人は何よりも素晴らしく尊い。
ただ、あまりにもそれに束縛され、それだけのために行動することが果たして本当に正しいのだろうか。成功に囚われ、そこに至らなかった人を敗者とする現代社会のシステムはなんだか妙に息苦しいように思うことがあるのだ。
達成することは尊い。成功することは素晴らしいことだ。それはもちろんそうなのだが、そこに至らなかった思いも当然のように尊く、素晴らしいものじゃないだろうか。
僕はずっと達成と成功に囚われていた。こういう記事を書くのだから、途中リタイアはありえない。絶対に最後の大窪寺まで行って成功させ、記事を書きあげなくてはならない。ずっとそんな気持ちで旅をしていた。途中で断念するなんて記事にもならないし、敗者になるってことだと思っていた。でも実際は違う。
お遍路という行為はいわば修行の旅だ。ただし、その修業はあまり厳しくない。あまりお遍路のことを知らない時に抱いていた印象よりも、言い方は悪いが、様々な面が緩い。例えば「区切り打ち」という概念だ。別に1番から88番まで一気に巡らなくていいよ、できるところまでやってみて日常生活に戻り、また続きやるためにおいで、というやつだ。この旅でも、前編と後編に分けて区切り打ちをやっている。
こういった考えに対して「甘い」「通しでやってこそお遍路だ」という意見もあるようだが、それこそ成功に囚われすぎなのである。区切り打ちという概念は、事実上、リタイアの存在を消してしまうのだ。ある場所で足が動かなくなってリタイアしたとしよう。けれども、それは断念ではなく、今回はここまで、と考えられるのだ。いつか復帰してその地点から始めれば「区切り打ち」となるのである。もう二度とやりたくないと本当にリタイアした人だって、考えが変わってリタイアした場所から区切り打ちで再開ができる。結果、リタイアが存在しなくなるのだ。これは「甘い制度」ではなく、「達成」に至らなかった思いに寄り添う制度なのだと思う。
現代社会は、その達成に至らなかった思いへの寄り添いが足りない。確かに、当人の怠惰ゆえに達成に至らないものに寄り添う必要はない。ただ、強く思い、努力を重ね、それでも断念せざるを得なかった思いに対しても、勝者と敗者としての切り分けが待っている。僕もそんな現代社会を受け入れ、あまりに達成に囚われ続けていた。
なんだってそうだ。きっと絶対に、死んでも成功・達成しなければならない事象なんて、たぶんない。ただ思いを持って前に進んでいけばいい。それで失敗したとしても、別に気に病む必要はない。開き直って区切り打ちをすればいい。いつかまた、やればいい。気に病む必要なんてない。それだけだ。
そんなことを考えていたら、あっという間にバスが大窪寺に到着した。
長かったお遍路がついに終わった。足の痛みもあったが、それ以上に気が抜けてしまって、バスを降りた場所の休憩所みたいな場所からしばらく動けなかった。
大窪寺下にはお土産物屋が何軒もあった。ここで遍路を終え、ちょっと開放的な気分になってお土産をついつい買っちゃう、みたいな雰囲気があった。
お遍路88カ所を全て巡ることを結願(けちがん)という。その結願の寺とも言える大窪寺には、旅のお供であった金剛杖を奉納する場所がある。最後の寺ならではといった光景だ。
ファルコン号と大窪寺。
手袋。
ということで、四国遍路の旅&全駅制覇の旅、おわり。旅のまとめは以下のようになります。
お遍路は人生に似ている。そう思った。
お遍路で巡る88カ所の霊場を人生にあてはめ、ちょっと長生きして88年の寿命と考えると、1つの霊場が1歳に相当する。88カ所で人生全てを巡ることになる。
その道のりは不公平だ。アホみたいに近所にある札所もあれば、歩きで2泊3日とか悪い冗談のように遠い札所もある。平坦な道もあれば、泣かされるレベルの「へんろころがし」という道のりもある。四国の端まで行かされたと思えば、標高1000メートルの場所までいかされる。1つの札所を寿命の1年と考えると、その1年は決して等価ではない。
良い時もあれば苦しい時もある。泣きたい時代もあれば、笑っちゃうくらいうまくいくときもある。足を引きずりながら進む1年もあれば、ロープウェイで進む1年もある。つくづく、きっと人生もそういうものなんだと思う。
お遍路を進んでいくと、誰かが支えてくれることがある。泣いていた僕を助けてくれた人がいた。励ましてくれた人がいた。車から頑張れと言ってくれた人がいた。きっと気づかないだけで人生だってそうやって進んでいくのだろう。
僕らの人生には何カ所か「人生ころがし」という茫漠とした難所が横たわっている。それに直面し、僕らはどうするべきだろうか。挫折し、心折れるか、誰かに助けてもらうか、タクシーのようなものでパスするか、バスルートを探し出し、戦略的にクリアするか、そして自分に向き合い、正面から攻略するか。奇しくも、この旅で直面した「へんろころがし」への向き合い方は人生における難所への向き合い方のパターンと同じだったように思う。
僕らは人生というお遍路を進んでいかなければならない。心折れたっていい。達成できなくたって成功できなくたっていい。ただただ一歩ずつ先に進んでいくべきなのである。僕らの人生は巡っていく。まるでお遍路のように。明日もまた、次の札所と駅を目指して進んでいくのだ。
そう気付かせてくれた四国という場所に心からの礼賛と愛を伝え、この記事を終わりとしたい。僕はたぶん、四国を愛している。
四国の全駅制覇とお遍路を同時にやったら大変なことになった おわり
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